40代以降の身体は「異なる刺激」で進化する?──マスターズ王者から考える適応の科学

昨年から自転車のロードレースで快進撃を続け、今年も全日本選手権マスターズM40チャンピオンになった(ここではM選手ということにしておきましょう)について書きたいと思います。

実は、私はMさんの大ファンであり、真摯にトレーニングへ向き合うその姿勢やブログ等で発せられる言葉から、今でも競技志向の市民アスリートとして多くの刺激をもらっています。

昔から十分に強かったMさんですが、ここ最近、特に昨年あたりからさらに強さに磨きがかかり、凄みが増しているように見えます。

Mさんは2〜3年前にトライアスロンに挑戦し、フルマラソンも走っていました。今はロードレース一本に戻り、他競技はやっていません(と思います)。

ただ、Mさんの歩みを目の当たりにしたわけではありませんし、ブログ等で垣間見る程度ではありますが、ずっと追い続けてきたからこそ、ふと思うのです。 もし彼があの時期にトライアスロンに挑戦していなかったら、今の驚異的な強さはあったのだろうか、と。

これは一人の選手を題材にした、あくまでも仮説であり運動生理学的考察です。 もちろん競技力向上は一つの要因で説明できるものではありません。 しかし、近年の研究を照らし合わせると、「異なる刺激」がこの年代の身体にもたらす意味について、興味深い仮説が見えてきたのです。

40代以降という、何もしなければ肉体の老化が進み始める時期。長年、自転車だけに最適化されて固定化しつつあった身体に、あえて全く異なる運動刺激を与えたこと。それによって、その後のMさんの肉体に何かしら新たなキャパシティ(能力・許容量)が広がったのではないか。

もちろん、自転車だけを愚直に続けていたほうが強くなれたという見方もできます。しかし、自転車一筋でやってきた同年代のライバルたちとの現在の差を見るとき、あの数年間の「遠回り」がもたらした影響は、あながち無視できない要素のように思えてなりません。

Mさんはは当時、トライアスロンのトレーニングに深く打ち込んでいました。前述しましたようにオーバートレーニングに陥り、体調を崩すほど身体には大きな負担をかけていました。しかし、それほどまでに従来とは異なる刺激に身を置いたこと自体が、その後の適応の幅を広げた可能性はあるのではないかと思うのです。

以前、私のブログ記事[老化と退化の違いについて]で書きました。

老化?いやそれただの退化です〜中高齢者の皆さん、現実と向き合いましょう〜
📌 この記事の要点(忙しい方はここだけ読めばOK!)「もう歳だから動けない」の9割は、老化ではなく単なる「退化」です。人間の身体は非常にシビアで、何十年も「やっていなかった動き」の機能は容赦なく削減されます。よくある「毎朝ののんびり散歩」だ…

「老化は避けられないが、使わない機能が衰えていく『退化』は、刺激不足によって起こる。だからこそ、普段とは異なる刺激を与え続けることが重要である」という話です。

今回のMさんのケースは、まさにこの「退化を防ぐための刺激」という考え方と、深くつながっているように感じられます。

異なる刺激(クロストレーニング)が生理学的にキャパシティを広げる理由

この年代では、同じ運動や同じ刺激を何年も繰り返していると、若い頃よりも適応の頭打ち(プラトー)が起こりやすくなります。長年の経験から身体が省エネな動きになりますし、それ以上の成長を促すための刺激を掛けづらくなるからです。

そこに「ランニング」「スイム」「トライアスロン特有の長時間運動」という、自転車とは異なる質の運動刺激が入ることで、身体は新しい適応を起こさざるを得なくなります。このプロセスが生理学的にどのようなメリットをもたらしたのか、いくつかの仮説から探ってみます。

① 中枢と末梢への新たな刺激

自転車はサドルに骨盤を固定し、自重を預けて効率よく脚を回すスポーツですが、ランニングは体重の2〜3倍にも達する地面反力を自らの筋肉や腱で受け止め、全身を弾ませて進むスポーツです。また、自らの身体を支えつつ、重力にも抗いながら身体の筋肉を動員して進むため、自転車よりも心肺機能をフル稼働させるような強い刺激を与えやすくなります。

長年同じ競技だけを続けていると、心肺や末梢組織の適応もその競技に対して特異的になり、新たな刺激に対する適応の余地が小さくなっていく可能性があります。しかし、自転車では得られない運動様式の刺激が、中枢(心肺)だけでなく末梢組織や神経筋システムにも加わったことで、これまで十分に刺激されてこなかった組織や運動連鎖にも適応が広がった可能性があります。

② 水泳(スイム)がもたらす全身の連動性とサイクリングへの恩恵

トライアスロンへの挑戦において、自転車選手にとって最も異質な刺激となったのが「スイム」だと思われます。

近年、ツール・ド・フランスを走るような世界のトップサイクリストの間でも、オフシーズンやコンディショニングの一環としてスイムを取り入れる例を見ることがあります。主に脚を使う自転車とは一見関係がなさそうな水泳ですが、なぜロードレースの強さを引き出すきっかけになるのでしょうか。そこには、プールという「水の中」ならではの、身体への効果が潜んでいます。

中枢(心肺)へのアプローチ:呼吸循環系のリミッターを外す
水中という不自由な環境で行うスイムは、強制的に「制限された呼吸」を強いられます。これにより、陸上運動とは異なるパターンの換気刺激が入り、呼吸筋(横隔膜や肋間筋)そのものが強力に鍛えられます。また、水圧によって全身の静脈血が心臓へと押し戻されるため、心臓の一回拍出量(一呼吸で送り出される血液の量)が増大し、陸上とは違う形で心肺機能に強力な揺さぶりをかけることができます。

末梢・構造へのアプローチ:胸郭の可動域拡大と「体幹の連動性」の向上
自転車のポジションは、どうしても胸を縮め、背中を丸めた固定的な姿勢が長時間続きます。これにより胸郭(肺を取り囲む骨格)や肩甲骨回りが硬くなり、呼吸の浅さや、フォームの力みに繋がることがあります。 一方、スイムのストローク動作は、胸郭を大きく開き、肩甲骨から骨盤までをねじるようにして全身を連動させる運動です。スイムによって上半身の可動域が広がり、深層筋群(インナーマッスル)を含めた体幹の引き上げ能力が向上したことで、ロードレースに戻った際にも、深く長い呼吸を維持しやすく、かつ体幹から生み出したパワーをロスなくペダルへ伝える「しなやかなフォーム」の獲得に寄与した可能性があります。

③ 腱や結合組織(筋膜など)のリモデリングと腱剛性の向上

特にランニングは、自転車にはない「着地衝撃」や「荷重負荷」を伴う全身運動です。

自転車は関節への衝撃が極めて少ない優しいスポーツである反面、骨や腱、筋膜といった結合組織に対する負荷は不足しがちです。ランニングによって、着地の衝撃をアキレス腱や足裏、骨盤まわりの深い筋肉で受け止め、それを跳ね返すパワーに変える運動を繰り返すことは、筋肉や腱を強く鍛え直し、身体の組織を新しく生まれ変わらせた可能性があります。

Mさんの過去の運動履歴を見てみると、この仮説はさらに現実味を帯びてきます。実はMさんは、若い頃に陸上の短距離に打ち込んでいた経験があるのです。

短距離の世界こそ、まさに地面からの強烈な衝撃を爆発的な推進力に変える「腱のバネ(腱剛性)」や「SSC能力」の極致です。長年、自転車のペダリングという関節に優しい運動に最適化されていた身体に、再び「ランニングの衝撃」という刺激が入った瞬間、若い頃に陸上強豪校で鍛え上げられていた神経系や筋腱の記憶(マッスルメモリー)が、長い眠りから呼び起こされたのではないかという仮説も浮かび上がってきます。

ペダリングに直接SSCが使われるわけではありませんが、ランニングによって向上した腱剛性や結合組織の強度は、身体全体の力の伝達効率を高める土台となり、その結果としてペダリングにも好影響を与えた可能性が多少はあるのではないかと私は考えています。

④身体のスイッチがもう一度入り直す「再点火」

どんなに優れたトレーニングでも、同じ刺激を何年も繰り返していると、適応は徐々に頭打ちになります。身体がその刺激を効率よく処理できるようになり、新たな適応を起こす必要性が小さくなるからです。

そこで、これまでとは異なる運動刺激を与えると、身体は再び新しい環境に対応しようとします。普段はあまり使われていなかった組織や神経系が新たに動き始め、停滞していた適応が再び進み始める可能性があります。言わば「適応の再点火」です。

一度、異なる刺激によって身体の適応の幅(器)を広げ、その後に再びロードレースへ専門特化したことで、以前よりも高い限界値まで到達できたのではないでしょうか。

もちろん、これは一つの仮説です。しかし、長年積み重ねてきた土台の上に新たな刺激を加えることで、停滞していた適応が再び動き始めるという考え方は、現在のスポーツ科学とも矛盾しません。

トップアスリートの歴史を見ても、若い頃にクロスカントリースキーや水泳、サッカーなど、異なる競技を経験している持久系選手は少なくありません。異なる運動パターンを経験していること自体が、長期的な競技力の底上げに寄与している可能性は十分に考えられます。

⑤ 2〜3年前の刺激は、今も残っているのか?

ここで一つ、「今はもうランもスイムもやっていないのだから、数年前の刺激なんてすでに消えてしまっているのではないか」という疑問も当然湧いてきます。

確かに、筋肉や心肺機能のレベルそのものは、運動をやめて数ヶ月から1年も経てば元の水準に戻ると言われています。しかし、一度、極限までトレーニングをやり込んだ身体には、目に見えない細胞レベルの「下地」のようなものが残り続けるとも言われています。

一度限界まで広がった適応の器は、たとえしばらく練習を休んで中身が減ってしまったとしても、次に刺激が入ったときに「戻るスピード」や「吸収の効率」が圧倒的に早くなります。かつてオーバートレーニングに陥るほどの追い込みをかけた経験は、自転車のトレーニング効果を最大化させるための強力な土台として、身体の奥底に眠っている可能性があります。

変化を恐れず、身体に学習を続けさせること

長々と私なりの仮説を書き連ねました。スイムによって固まった姿勢がリセットされ、ランニングによって全身の伝達効率が増した――。そうした異なる刺激を取り入れた経験そのものが、Mさんの肉体の可能性を引き出した一因だと考えています。

ロードレースという、ほんのわずかな差が勝者と敗者を大きく分かつシビアな世界で、長年王者として君臨していたTさんや、Tさん(あ、この人もTさんでしたね笑)に競り勝ったという事実を見ると、このクロストレーニングがもたらした一連の仮説も、あながち見当外れなものではないと思うのです。

マスターズ世代のアスリートにとって、ただ「慣れ親しんだ同じ練習を効率よくこなす」だけでは、退化の波に抗うのは難しくなります。 人間の肉体は常に効率化を目指します。同じ刺激を繰り返していると、最小限のエネルギーでその刺激を処理しようとシステムを「最適化(省エネ化)」してしまいます。プラトーの一因とも言えるものだと思います。

身体に対して常に「まだ変わる必要がある、まだ新しい動きに対応しなければならない」という新鮮な刺激を送り、神経や筋肉に『学習』を続けさせることが、この年代の進化を支える、もしくは退化を防ぐ鍵となるのです。

もちろん、Mさんが強くなった理由は本人にしか分かりませんし、私の仮説をそんなことないよと笑い飛ばすかもしれません(苦笑)。しかし、一人のトップアスリートの歩みを長いスパンで見てみると「異なる刺激」がこの年代の身体に新たな可能性をもたらしたかもしれない、という考え方は「あるかもしれないな」くらいの信憑性はあると思います。

老化という抗えない流れの中で、退化を防ぎ、さらなる進化を遂げるためのヒントが、Mさんの数年間の軌跡に隠されているように思います。「異なる刺激」を取り入れたことが、同世代のライバルとの差を生み出す一つの要素になったのではないでしょうか。40代以降だから衰えるのではない。40代以降だからこそ、身体は新しい刺激や異なる刺激に適応し、なお進化する可能性を秘めているのかもしれません。

※本記事は一人のアスリートの歩みから着想を得た考察です。競技力向上の要因は多岐にわたり、本記事で述べた内容は科学的に因果関係が証明されたものではありません。


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