
あなたは、自分の閾値をどうやって決めていますか? GPSウォッチでしょうか。 30分間タイムトライアルでしょうか。 それとも、「乳酸4.0 mmol/L」という数字でしょうか。
バッケンの答えは、そのどれでもありません。
世にあふれるランニングノウハウは、私たちに「それらしい数字」を簡単に教えてくれます。しかし、マリウス・バッケンが5500回を超える乳酸測定の果てに行き着いた結論は、あまりにもシンプル、かつシビアなものでした。
――「本当の閾値は、自分の足と血で探すしかない」
第1章では、なぜゴールデンゾーン(閾値の少し手前)が必要なのかという「思想と生理学的背景」を紐解きました。続く第2章のテーマは哲学ではありません。「どうやって自分の正確な閾値を見つけ出すのか」という完全な実践編です。
1. 14歳の原点:閾値は「測れる」ものだった
すべては、バッケンが14歳のときに経験した小さな生理学ラボでのテストから始まりました。
自宅から車で30分のところにあるラボ。中央にそびえるトレッドミルと、乳酸測定器、テストストリップ、ランセット。走ることへの緊張ではなく、「自分の数値は十分に優れているのか」という問いを胸にテストは始まりました。
- 初期段階:「1.8 mmol/L. 続行せよ」
- 中盤:「2.3 mmol/L」「3.4 mmol/L」
- 終盤:4.5、5.9、7.3 mmol/Lへと、ペースの上昇とともに容赦なく跳ね上がる数値。
やがてベルトにしがみつけなくなった限界のとき。生理学者モーザーはグラフを描き出し、その曲線の屈曲点にそっと印をつけました。
「ここだ。これが君の閾値だ」
この瞬間から、「ハードであること」は曖昧な感覚ではなく、可視化された客観的事実となりました。バッケンはこの体験から、閾値は実在し、測定可能であり、鍛え上げることができるという確信を得ました。しかし同時に、それは「型にハマった一般論では絶対に特定できない」という終わらなき探求の始まりでもありました。
2. 5500回の乳酸測定が教えた「万能な方法などない」という真実
バッケンは理論から閾値へ到達したのではありません。5500回を超える乳酸測定という、気の遠くなるような試行錯誤の末に、このメソッドへたどり着きました。
もし乳酸値の測定だけですべてが分かるのであれば、彼は他の方法を研究する必要はありませんでした。しかし5500回の測定は、乳酸・心拍・トークテスト・主観が一致するときもあれば、食い違う日もあることを彼に教えました。だからこそ彼は、「単一の指標に頼るのではなく、複数の方法を組み合わせる」という結論へ到達したのです。
そこで彼が痛感したのは、長年使われてきた「4.0 mmol/L」という目安に対する姿勢でした。「4.0 mmol/L」は多くのランナーにとって有用な出発点ではありますが、バッケンは5500回を超える測定を通して、それを万人に当てはめることの危険性を強く主張しました。十分に訓練されたランナーでは、ゴールデンゾーンは多くの場合2.3〜3.0 mmol/L付近に位置します。4.0という数値を一律のマーカーとして使用することは、すべての人間に同じ靴のサイズをあてがうようなものです。
ここで、バッケンは一つの重要な原則へたどり着きます。
「測定精度が低いほど、安全マージンは大きく取れ。」
この考え方が、本書全体を貫く強力な哲学となっていきます。
3. なぜ複数の方法で測るのか:3ポイント法と「食い違い」の分析
人間の身体は機械ではありません。疲労度、睡眠の質、気温、さらには朝か夜かによって、心拍数や閾値の感覚は日々変動します。そのため、GPSウォッチが示す閾値は高めに推定されることが少なくありません。
だからこそ、バッケンが提唱するのが、複数の異なるアプローチを交差させる「3ポイント法(トライアングレーション)」です。
ここで重要なのは、3つの数値が綺麗に一致することだけではありません。もし食い違ったなら、その理由を考えることです。 例えば、以下のようなケースです。
- 乳酸値は正常なのに、心拍数だけが異常に高い → 暑熱環境や脱水が原因ではないかと疑う。
- 乳酸値は低いのに、トークテストではひどく苦しい → 睡眠不足や精神的なストレス、神経系の疲労が蓄積していると読み取る。
こうした「数字と感覚のズレ」をスルーせず分析することこそが、その日の身体の状態を正確に教えてくれる最高の羅針盤となります。
では、現場で使える具体的な手法をみていきましょう。
4. 実践的アプローチ①:トークテスト(The Talk Test)
コーチたちが長年の経験則から理解していたように、「走りながらどれほど自由に話せるか」は、乳酸メーターがなくても閾値の現在地を教えてくれる優れたバロメーターです。
- シンプル・トークテスト:1呼吸で完全な文章が話せるなら閾値以下。呼吸するまでに数単語しか発せないが短いフレーズが可能なら閾値付近(ゴールデンゾーン)。単語を1つ発するのがやっとなら閾値超過。毎回同じ固定された歌の歌詞などを口ずさみ、「息継ぎをしなければならない最初のタイミング」を確認します。
- 拡張トークテスト:生理学者カール・フォスターとの共同研究に基づくプロトコル。3分間のインターバルを5〜8本行い、ステップごとにペースを段階的に引き上げます。各インターバルの最後の30〜40秒間で文章を声に出して朗読し、「はい」「はい、しかし…」「いいえ」を評価します。「はい、しかし…」と答えられる領域こそが、まさにゴールデンゾーンです。
5. 実践的アプローチ②:VDOTテーブルと30分間タイムトライアル
直近のレース結果からトレーニングペースを算出するジャック・ダニエルズのVDOTテーブルは強力なツールです。ダニエルズの「Tペース」はおよそ60分間持続可能なペースを指しますが、ゴールデンゾーンにとどまるためには、標準的なTペースに8〜12秒を加えた「遅めのペース」を選択する必要があります。
また、McGeheeらの研究に基づく「30分間タイムトライアル」も有効です。
- 自分が持続できる最速の一定ペースで30分間走り続ける(最初の10分はリズム調整)。
- 最後の20分間の平均心拍数を、推定閾値心拍数とする。
- ゴールデンゾーンを見つけ出すために、その心拍数から4〜7拍引いた値をターゲットとする。
6. 実践的アプローチ③:実測による最大心拍数と「ヒル・プロトコル」
年齢からの推算(220-年齢)は10〜12拍の誤差を生むためあてになりません。真の最大心拍数を知るためには、実測が必要です。
- ヒル・プロトコル:2〜3分で登りきれる一定勾配のヒルコースで、入念なウォーミングアップ後に3本の試行(1本目コントロール、2本目ハード、3本目最初から最高強度)を行います(間に3〜4分の休息)。記録された最も高い心拍数が真の最大心拍数です。
- そこから、十分に訓練されたランナーであれば最大心拍数の80〜87%を目安に閾値心拍数を算出します。
7. 実践的アプローチ④:乳酸プロファイリング
もし乳酸測定器にアクセスできる環境にあるならば、トレッドミルや同一のフラットなコースで、5分間のインターバルを段階的に上げていくステップテストを定期的に実施すべきです。ペースに対して乳酸をプロットすることで、低く安定したゾーン、上昇が加速する移行ゾーン、急勾配ゾーンの3つが浮かび上がり、単一の点ではなく「範囲」として閾値を定義できるようになります。
8. よくある失敗
- 1つの方法を盲信しない:単一のテスト手法に完璧な精度はないため、複数の方法をクロスチェックする。
- 食い違いを無視する:数値や感覚がずれているときに、それをスルーして予定通りのペースで押し切ってしまう。
- 時計の数値を絶対視する:GPSウォッチの推計値は高めにブレることがあるため、心拍などで必ずマージンを組み込む。
- 主観的シグナルの無視:トークテストや主観的疲労度で「きつい」と感じるなら、数値が何と言おうとそこはすでにゴールデンゾーンを超えている。
第2章のまとめ
閾値は、一度測れば終わりではありません。何度も確かめ、微調整し、その日の身体と対話し続けるものです。
バッケンが5500回もの乳酸測定の末にたどり着いた結論は、驚くほどシンプルでした。
「If in doubt, slow down.(迷ったら、遅く走れ)」
閾値トレーニングで最も避けるべき失敗は、速すぎることです。少し遅い強度は、翌日も、その次の日も積み重ねられます。しかし少し速すぎる強度は、数日分のトレーニングを失わせることがあります。
バッケンは、本書を通じて何度もこの姿勢を繰り返します。それは消極的だからではありません。最終的に最も大きな適応を生み出す、最も積極的な戦略だからです。
※次回は、この閾値を使って実際にトレーニングをどう組み立てるのかを見ていきます。
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