
マラソンやトライアスロン、ロードレースなどの持久系競技において、さらなるパフォーマンス向上を目指す際に必ず話題にのぼるのが「高地トレーニング」です。しかし、高地トレーニングは膨大な遠征費用や数週間におよぶ滞在時間が必要となるため、実生活の中で実践できるのはプロや一部のエリート選手に限られています。一般的な市民アスリートにとっては、憧れはあっても現実的な選択肢になりにくいのが実情です。
そうした背景から、海外のアスリートや研究者の間では「暑熱トレーニング(Heat Training)は、貧者の高地トレーニング(Poor Man’s Altitude Training)である」という表現がよく使われるようになりました。
標高の高い山へ行ったり特別な設備を使わず、暑い環境下でトレーニングを重ねることで、高地トレーニングに似た効果が得られるという説です。しかし、運動生理学や生化学の視点から詳しく見ていくと、この言葉にはうなずける部分がある一方で、勘違いしやすいポイントも含まれています。
本記事では、暑熱環境と高地環境が身体に与える内在的負荷の違い、両者の生理学的な適応メカニズム、そして体内で起こるダメージの質的な違いについて整理していきます。
暑熱と高地における「内在的負荷」の共通点と違い
まず、暑熱環境と高地環境で運動を行った際、私たちの身体にかかる負荷(内在的負荷:Internal Load)の仕組みから整理します。
どちらの環境においても、平地の適温環境と同じペースや出力で運動を維持することは困難であり、外部的なパフォーマンス(スピードやワット数)は低下します。しかし、パフォーマンスが低下する内部的なプロセスは大きく異なります。
暑熱環境における負荷:心循環器系の競合と深部体温の上昇
暑い環境で運動を行うと、筋肉を動かすための代謝熱が発生します。身体はこの熱を外部へ逃がすため、皮膚の血管を拡張させ、大量の血液を体表近くへ送ろうとします。
このとき、体内では以下の現象が同時に発生します。
- 血流の競合:酸素を必要としている「活動筋」と、放熱を担う「皮膚血管」との間で、限定された血液の奪い合いが発生します。
- 心拍ドリフト(Cardiovascular Drift):大量の発汗によって血漿(血液中の水分)が失われ、全身を循環する血液量が減少します。その結果、心臓が一度の脈拍で送り出せる血液量(一回拍出量:Stroke Volume)が低下し、全身への酸素供給量を維持するために心拍数が著しく上昇します。
- 深部体温の限界:体温調節の限界を超えると深部体温が上昇し、脳からの運動指令自体が抑制されます。
つまり暑熱下でのパフォーマンス低下は、「体温上昇の抑制」と「筋・皮膚間での血流分配の限界」が主な原因となります。
高地環境における負荷:吸入酸素分圧の低下と組織の低酸素状態
一方、高地環境(標高2,000m以上など)では、大気圧の低下に伴って「吸入酸素分圧」が低下します。空気に含まれる酸素の割合自体は約21%で一定ですが、圧力が低いため、息を吸ったときに肺から血液へ取り込める酸素の量が減少します。
高地における負荷のメカニズムは以下の通りです。
- 動脈血酸素飽和度(SpO2)の低下:血液中のヘモグロビンと結合する酸素の割合が減少し、全身の細胞や筋肉が酸素不足に陥ります。
- 代償的な心血管応答:不足した酸素を補うため、同じ運動強度であっても心拍数や換気量(呼吸の回数や深さ)が増加します。
- 相対的運動強度の増加と糖質利用の上昇:酸素供給の制限によって最大酸素摂取量(VO2max)自体が低下するため、平地と同じペースや出力であっても身体にかかる相対的な強度(%VO2max)が高くなります。その結果、エネルギー源として糖質(解糖系)への依存度が高まります。
つまり高地でのパフォーマンス低下は、「環境そのものによる酸素供給不足」が直接的な原因となります。
生理学的適応の比較:何が似ていて、何が異なるのか
暑熱トレーニングと高地トレーニングを実施した際、身体が環境に適応しようとして起こす生理学的反応には、共通する部分と決定的に異なる部分が存在します。
結論から先に言えば、「循環機能(心臓が血液を押し出す仕組み)の改善」は非常によく似ていますが、「血液の酸素運搬能力の向上」という点においては大きな違いがあります。

血液成分(血漿量)の変化における共通点と対比
血液中の水分成分である「血漿量(Plasma Volume)」の応答は、両者の環境で対照的な挙動を示します。
- 暑熱順化でのプロセス:発汗による脱水と血液濃縮が刺激となり、ホルモン(アルドステロンやバソプレシン)の分泌が促され、腎臓での水分やナトリウムの再吸収が高まります。その結果、約1週間から2週間程度の短期間で血漿量が5〜15%ほど急速に増加します。
- 高地順化でのプロセス:高地到達の初期(初日〜数日間)は、過換気や乾燥した空気による水分喪失、さらには利尿作用により、血漿量は10〜15%ほど低下します。その後、滞在を重ねて順化が進むと、赤血球量の増加に伴って総血液量が拡大し、血漿量は徐々に平地レベル近くまで回復していく傾向を示します(回復の度合いには個人差が存在します)。
このように初期の血漿量の動きは対照的ですが、最終的には総血液量の増加や循環機能の改善を通じて、静脈還流量や心機能に好影響をもたらします。
一回拍出量(Stroke Volume)が増大することにより、同じ運動強度であっても心臓のポンプ機能にゆとりが生まれ、結果として運動時の心拍数が低下しやすくなります。暑熱順化後に常温環境でVO2maxの向上が報告される研究があるのは、主に血漿量の増加による心拍出量の改善が要因と考えられています。
実際に、訓練されたサイクリストを対象とした10日間の暑熱順化では、血漿量が約6.5%増加し、最大心拍出量とVO₂maxが向上するとともに、タイムトライアルの成績も改善したことが報告されています。
決定的な違い:赤血球数(ヘモグロビン量)の増加とEPO
高地トレーニングを実施する最大のアスリート的意義は、「赤血球(ヘモグロビン量)の増加による酸素運搬能力の向上」にあります。
高地での低酸素状態は、細胞が「酸素が足りない」と感知するスイッチを入れます。これを合図に主に腎臓からエリスロポエチン(EPO)というホルモンが分泌され、骨髄を刺激して赤血球の生成を強力に促します。赤血球(ヘモグロビン)が増えることで、血液1リットルあたりに蓄えられる酸素の量そのものが増加します。
対して、暑熱トレーニングのみではEPOの大幅な増大や赤血球(ヘモグロビン質量)の増加は基本的に起こりません。
暑熱環境下では、血液濃縮によって一時的にヘマトクリット値(血液中に占める赤血球の割合)が上がることがありますが、これは水分が減ったことによる相対的な変化であり、赤血球の絶対量が増えているわけではありません。
したがって、高地トレーニングが「血液そのものの酸素キャリア(運搬体)を増やす適応」であるのに対し、暑熱トレーニングは「血漿量を増やして循環動態を効率化し、総血液量を増加させる傾向をもたらす適応」であると言えます。
暑熱トレーニング独自の適応メカニズム
一方で、暑熱トレーニングには、高地トレーニングでは得られにくい独自の適応も数多く存在します。「赤血球が増えないのであれば、暑熱トレーニングは高地トレーニングの下位互換なのか」というと、決してそうではありません。
体温調節機能の劇的な向上
暑熱順化が進むと、発汗に関する応答が著しく改善します。
- 発汗開始温度の低下:運動を開始してから、より低い体温(早い段階)で汗をかき始められるようになります。これにより、深部体温の急激な上昇を未然に防ぐことが可能になります。
- 発汗量の増加と皮膚血流の効率化:汗腺の働きが活性化し、単位時間あたりの発汗量が増加します。
- 電解質の保持能力向上:体内の塩分と水分バランスを整える「アルドステロン」というホルモンの働きにより、汗腺でナトリウム(塩分)を再吸収する能力が高まります。その結果、汗に含まれる塩分濃度が低下し、長時間の運動でも電解質バランスが崩れにくくなります。
これらの適応により、運動時の「皮膚血流と筋肉血流の奪い合い」が緩和され、暑いレース条件下におけるパフォーマンス維持能力が著しく向上します。
ヒートショックプロテイン(HSP)による保護作用
暑熱刺激によって体温が上昇すると、細胞内ではヒートショックプロテイン(特にHSP70など)と呼ばれるタンパク質の産生が強く誘導されます。HSPは「分子シャペロン」とも呼ばれ、熱やストレスによって構造が乱れたタンパク質を保護し、正常な立体構造へ戻すのを助ける、いわば細胞内のメンテナンス役です。
HSPの主要な役割は、変性したタンパク質の修復や品質管理を担うことです。この働きによって細胞全体の機能が維持され、結果としてエネルギー産生の要であるミトコンドリアの構造や機能の損傷を防ぐことにつながります。
暑熱によるダメージと高地によるダメージの違い
トレーニング後の疲労回復や身体へのダメージという観点においても、両者の環境は異なるストレスをもたらします。
暑熱環境によるダメージの特徴
- 熱ストレスと炎症反応:体の深い部分の温度(深部体温)が高値に達すると、「インフレマトリーレスポンス(全身性炎症反応)」が引き起こされます。極度の熱ストレスは「腸管粘膜のバリア機能(病原体や毒素の侵入を防ぐ腸の壁)」を一時的に低下させ、普段は腸内に留まっている「エンドトキシン(菌に由来する内毒素)」が血液中に漏れ出る原因となります。この毒素が全身を巡ることで、強い疲労感や全身的な炎症反応につながることがあります。
- 脱水と中枢性疲労:大量の発汗に伴う水分の喪失は、血液の粘性を高め、心血管系に強い負荷を残します。また、脳の温度が上がることで中枢神経系が疲労し、運動後の神経系リカバリーに時間を要する場合があります。
高地環境によるダメージの特徴
- 酸化ストレスの増大:低酸素環境下での運動は、体内で活性酸素種(ROS)の発生を促し、筋肉や細胞膜の酸化ストレスを高めます。
- 筋肉量の減少リスクと睡眠障害:高地では代謝率が上がると同時に食欲が低下しやすいため、エネルギー不足に陥りやすく、筋タンパク質の分解が進むリスクがあります。また、低酸素刺激は夜間の「周期性呼吸」を引き起こし、睡眠の質を低下させて回復を遅らせる要因となります。
両トレーニングの生理学的適応まとめ
それぞれの適応反応の違いを比較表にまとめます。
| 適応項目 | 暑熱トレーニング | 高地トレーニング |
| 血漿量の変化 | 急速に増加する(5〜15%増) | 初期は減少、のちに徐々に回復傾向 |
| 一回拍出量(SV)の増加 | 循環系の改善により増加する | 順化に伴う循環改善により増加する |
| 運動時心拍数の変化 | 著しく低下する(心拍ドリフト抑制) | 順化後の平地運動では低下する場合がある |
| EPO分泌および赤血球の増加 | 基本的には起こらない | 著しく起こりやすい(骨髄刺激) |
| 酸素運搬能力(Hb質量)の向上 | 変化なし、または微増程度 | 明確に向上する |
| 体温調節機能・発汗効率の改善 | 顕著に改善する | 変化なし、あるいはわずか |
| 電解質(塩分)の保持能向上 | 汗中のNa濃度が低下し改善する | 直接的な影響は少ない |
| ヒートショックプロテイン(HSP)誘発 | 非常に高いレベルで誘導される | わずかに誘導される程度 |
| 主なパフォーマンス向上メカニズム | 心拍出量(心臓側)の拡大 | 酸素運搬体(血液側)の増加 |
総合的な考察:アスリートはどう活用すべきか
「暑熱トレーニングは貧者の高地トレーニングである」という説について整理しますと、
- 「血漿量の拡大を通じた心循環器系の機能改善(一回拍出量増大、心拍数低下)」という側面においては、高地トレーニングの代替になり得る
- 「低酸素刺激によるEPO分泌と赤血球(ヘモグロビン量)の増加」という側面においては、高地トレーニングの代替にはならない
という結論に至ります。
つまり、血液の「液体部分(血漿)」を増やしてポンプ機能を高めるのが暑熱トレーニングであり、血液の「細胞部分(赤血球)」を増やして酸素運搬能力を高めるのが高地トレーニングであると言えます。改善される対象が「心血管系」なのか「酸素運搬体」なのかという違いが存在します。
近年では、これら双方の利点を組み合わせるアプローチも注目されています。高地環境で生活やトレーニングを行いながら赤血球数を増やし、同時に暑熱刺激(運動後のサウナや温浴、または暑熱下でのセッション)を加えて血漿量を増加させる手法です。これにより、総血液量をより大きく増加させられる可能性があります。
「貧者の高地トレーニング」という表現は、暑熱トレーニングの価値を十分に表しているとは言えません。暑熱トレーニングは、高地トレーニングの単なる代用品ではなく、それ自体に独自の生理学的な価値を持つトレーニングだからです。
高地へ行ける人は限られています。しかし、暑さは誰の前にも平等に訪れます。
この夏を「暑くて練習できない季節」と捉えるのではなく、「身体をもう一段階進化させるチャンス」と捉えられるかどうか。その積み重ねが、数か月後、そして次のレースでの大きな差となって表れるでしょう。
参考文献(主要レビュー)
・Lorenzo et al. (2010)
・Sawka et al. (2011)
・Périard et al. (2015)
・Gore et al. (2007)
本記事は複数のレビュー論文・代表的研究をもとに総合的に整理・解説しています。


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